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    • 2019.03.03 Sunday
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    三渓園のシンボル三重塔の秘話

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      三渓園三重塔の秘話

       

      今回は横浜三渓園のシンボル  

         旧燈明寺三重塔(重要文化財)と  

      この塔にまつわる驚きの秘話をご紹介いたします。

       


      (三渓園大池の「中の島」にかかる「観心橋」と桜に彩られた旧燈明寺三重塔)

       

      (南側から見た三重塔)

       

      まず初めにこの三重塔にかかわる二つの出来事を紹介いたします。

       

      一つ目は

      三重塔が正面の向きを90度変えたこと

       

      二つ目は

      三重塔と本堂が73年ぶりに京都から遠く離れた横浜三渓園の地で再会したこと

       

       

      この二つの出来事は、これだけでも驚きの事実でもあるのですが、今回はそれに加えて、全く別々の出来事であったこの二つの出来事が、運命の糸に導かれたと思えるほどピタリと繋がっていく、そんな不思議な話もご紹介いたします。

       

       

      三渓園のシンボル三重塔

       

      三渓園というと誰もが最初に目に浮かぶのはこの三重塔の景色です。

      入り口を入ると広大な大池が現れ、はるか先の小高い山の上に

      存在感溢れる美しい三重塔の姿を見ることができます。

       

      大池に浮かぶ小さな和船や季節の花々に彩られ

      三重塔は自然に溶け込んだ日本庭園三渓園のシンボルとして

      園内のあちこちからも眺められ親しまれています。

       


      (蓮池から見た三重塔)

       

      この三渓園の三重塔にはどのような歴史があるのでしょうか?

      まずは塔の歴史を検証したいと思います。

       

      三渓園の三重塔の歴史

       この三重塔は元々は京都南部の木津川市加茂にあった旧燈明寺の塔であります。

      京都加茂の地は奈良時代に恭仁京(くにきょう)という都が一時置かれたことがあり、現在でも幾つかの有名な寺院が残り、塔の多いことで知られています。

       

      「燈明寺」の歴史を寺伝でたどると、東大寺や日本全国に国分寺・国分尼寺を設けた聖武天皇の勅願により僧行基により創建されたとなっています。創建735年当時は「観音寺」とし、後に「東明寺」と改められ(1225年に記載)その後廃寺となりますが、室町時代中期に天台宗の僧「忍禅」によって復興、1457年に本堂・三重塔建立、しかし再度荒廃します。

       

       近世になると「燈明寺」と記載されるようになり、江戸時代の寛文3年に日蓮宗の僧により復興します。明治の神仏分離令により又荒廃、明治34年日蓮宗徒の川合芳次郎が「燈明寺」を買得。1914年(大正3年)原三渓が荒廃し朽ちてゆく三重塔を惜しみ横浜三渓園に移築し修理を施しました。

       

      因みに三渓園に移築されたため、この塔は関東に存在する三重塔としては一番古い建築となっています。

       

      旧燈明寺三重塔の構造

       建物の形式は「和様」といわれているもので、中国から伝わってきた建築技術を日本独自に発展させたものです。禅宗様と違い軒下の垂木は扇垂木ではなく平行垂木。1階内部の内陣天井は一段高く折上げられ、鏡天井とは違い、格縁の中に更に細かな格子が組み込まれている「折上げ小組格天井」となっています。四天柱に囲まれた内陣一部には来迎壁とその前に須弥壇があり仏像が祀られるようになっています。塔の高さは約24m、中心の心柱は一層目(1階)の屋根裏から立ち上がっている形式で因みにこの心柱の形式は中世の時代は多くみられるようです。京都加茂の隣の寺院「海住山寺」の五重塔の心柱も同じ形式となっています。

       

      心柱が一階天井裏の大梁の上から立ち上がっています。

       

      現在の三重塔1階内部を北側から撮った写真。4本の丸い四天柱と遒ぜ薪匹蠅凌槎鐫邸右側(西側)の二本の四天柱の間には壁(来迎壁)が見える。

       

      三重塔の正面(東側)から見た1階の内部。中央の四つの四天柱と来迎壁。手前黒漆の材が須弥壇の手すりの一部。左開口部が南側。

       

       

      三重塔の正面が90度向きを変えた最初の秘話

       

      旧燈明寺三重塔は現在正面を東に向けて丘の上に建っています。

      しかし実は大正3年に京都から横浜三渓園に移築されて以来、昭和31年までの43年間、塔の正面は南を向いていたのです。

       

      この年に三重塔は正面を東向きに90度向きを変えることになり、しかも新たに東側になった正面に合わせ誘導路までも新設し現在に至っています。

      なぜこのようなことをしなければならなかったのか?

       

      実は衝撃の事実が発見されたからなのです。

       

      きっかけは

       昭和28年、三渓園は原家から横浜市の財団法人「保勝会」に移管されることになりました。このため現状を把握する必要が生じ、全ての建築物を改めて調査することになり、更に重要文化財に指定されている建築についてはできるだけ建築時の原形に復す作業を文化財専門審議会に諮問の上行うこととなりました。

       

      三重塔についても十分に時間をかけた調査により衝撃の事実が分かりました。 

       

       

      衝撃の事実とは?

       

       1階の内部を調べたところ、四天柱上の架木取付穴、および四天柱(来迎柱)西側二本の抱き合わせ面に来迎壁框跡がありその他の痕跡によりなんと

       建造時は現在の東面が正面だったことが判明したのです。

       

      京都加茂の地で三重塔は正面を南を向けて建立されました。それがその後京都におけるある時代、境内のその後の伽藍の変節に合わせ(?)

       正面が西向きになるように三重塔の内部が改変されていたのです。

       

      この事実は調査関係者を驚かせました。三渓もそんな事実があるとは知らなかったため京都時代のそのままの状態のまま三渓園の丘の上に正面を南面させ移築しました。

      (三渓は昭和14年に亡くなっていますので改変されていた事実、復元した事実は知りません)

       

       

      正面の向きの復元方法

       

       これにより塔の正面は三渓が意図したこれまでの南向きの尾根道につながる広い広場からは横を向くことになり少し残念なことになったのですが、重要文化財は出来るだけ建造時の姿に復す考えがあるためこれを実行したわけです。

       

       ただし向きを変えると言っても塔全体を持ち上げて90度旋回したということではなく、南に向いていた1階内部の来迎壁と須弥壇を建造時の東側に向けて付け替え、入り口の階段も同様に南側から東側に付け替えることで塔の正面を東向きにしました。

       

       

      実はこの修復作業が後々の意外な秘話のベースになっていくことはこの時点ではまだ誰も予想はできなかったのです。

       

       

      二番目の秘話

       

      京都から遠く離れた横浜三渓園の地で三重塔と本堂が73年ぶりに再会

       

      (旧燈明寺本堂)

       

      旧燈明寺本堂の移設の経過についてご紹介いたします

       

       旧燈明寺の本堂も三重塔と同時代の室町中期に建造された禅宗様が加味された和様式です。三重塔とともに京都加茂の地で近代まで歴史を刻むことになりますが、塔の方は前述のように大正3年(1914年)に横浜三渓園に移譲されますが残された本堂はその後過酷な状況に身を置くことになります。

       

       本堂は昭和23年(1948年)京都を襲った暴風雨により大破してしまいます。このためやむを得ずその後解体され、部材として現地で保管されることとなりますが、追い打ちをかけるように昭和27年(1952年)に燈明寺は廃寺になります。

       

       寺としては廃寺になるのですが旧燈明寺はそれ以降「御霊神社」として残っていくことになり、その庫裏に本堂の部材は約30年間も格納され続けます。京都加茂の関係者はこれを惜しみ文化財を後世に残す観点から本堂を生かす道を探ることとなり、三渓園に移譲の話が持ち込まれます。既に同じ旧燈明寺の三重塔も過去に三渓園に移築されている縁で三渓園に譲渡したい旨の要望があったのでした。

       

       しかし本堂を受け入れるにはかなり広いスペースが必要となり簡単な話ではありませんが、なんと三渓園には当時本堂を受け入れるには最高の場所があったのです。

       

       これにも運命を感じるのですが、この場所は明治35年に原三渓が幾つかの製糸場を取得した時の一つ、宇都宮の大嶋製糸場にあった皇大神宮を移設し祀った場所だったのですが、戦時に空襲を受け神社は壊滅して山際に一部残骸を残し更地となっていました。

       

       この場所を本堂の園内への移設場所とすることで

      移譲の合意がなされ、旧燈明寺の本堂は昭和62年(1987年)に三渓園に移設されることとなりました。

      三重塔と本堂は京都から数百キロも離れた横浜の地で、なんと73年ぶりに思いもよらない再会を果たすことになります。

       

      この二つの出来事は内容も違い、年代も離れてはいるのですが次の秘話を生むことになります。

       

       

       

      二つの秘話が重なり、もう一つの秘話に

        

      本堂脇から見た三重塔です。本堂が移築されたこの場所は、このように結果的に三重塔に向かい合う場所でした。

       

      (本堂脇から見た三重塔)

       

       

      次に桜に包まれた旧燈明寺本堂の写真を見ていただきます。

      この写真を撮影した場所は丘の上の三重塔正面脇から写したものです。写真を見ると本堂は山を背中に

      し、正面は三重塔の方向に向いています。

       

      (三重塔から見た桜に埋もれた旧燈明寺の本堂)

       

      丘の上の三重塔は、昭和31年に正面を南から東に90度変えていたことにより、その31年後の昭和62年に三渓園に移築されてきた本堂に結果的に正対することになりました。

       

       

      このように不思議な偶然がいくつも重なり、

      重塔と本堂は、三渓園の見事な景色の中で向き合い、お互いを見つめあう、まさに恋人同士の状態となったわけです。

       

       

      最後に

       

       遠く離れた地で73年ぶりに再会した三重塔と本堂はそれだけでも不思議な運命を感じますが、それにもましてお互いが向き合う運命は初めから意図したものではなく、時代を超えた偶然の重なりの中で生まれたものです。73年間のブランクを取り戻すかのように三重塔と本堂は今、熱く見つめあっています。

       

       三渓園には幾つかの不思議な物語、歴史があり、これまでも私のブログの中で紹介させていただきましたが、三渓園を散策される際は、是非今回の不思議な話も思い出していただければ、三渓園の四季折々の美しい景色が更に輝きをもって感じられるのではないかと思っております。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       


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